日本三名園

日本三名園(にほんさんめいえん)とは、優れた景勝を持つ三つの日本庭園、

岡山市の後楽園、金沢市の兼六園、水戸市の偕楽園の総称である。

三園ともに江戸時代の大名庭園であり、それゆえいずれも戦略的な性格をも有していたとされる。

「日本三名園」もしくは「三名園」という言葉がいつ頃から使われ始めたのかは不明であるが、

少なくとも、一般に開放された明治以降と考えられる。

文献上では明治37年(1904年)に外国人向けに発行された写真集にこの言葉が使われているので、

これ以前であることは間違いないといえよう。なおこの三園の選定理由として、

いわゆる雪月花の雪に兼六園、月に後楽園、花に偕楽園を対応させたものであろうとする説がある。

ただし、いずれもが江戸時代に築かれた池泉回遊式の広大な大名庭園であるが、

この「日本三名園」には日本庭園におけるもう一つの有力形式である枯山水など、

池泉回遊式以外の形式のものは含まれていない。

すなわち、すべての形式の日本庭園を考慮したものとはいえないことにも注意が必要である。

岡山の後楽園

岡山の後楽園は岡山藩主・池田綱政により10数年の歳月をかけて元禄13年(1700)に完成した。

後楽園はその後も歴代藩主によって手が加えられた。
 遠州流の流れをくむ林泉回遊式の庭園で、約13haの敷地に池や築山の間をぬうように曲水と園路が巡らされている。
また、江戸時代の絵図や池田家の記録・文物などが残され、歴史の変遷を知ることが可能な大名庭園である
庭園内には備前富士と呼ばれる芥子山や操山が配され、背後に岡山城の天守閣がそびえたち往時を髣髴とさせる。
春は梅や桜、夏はハスや花ショウブが美しく後楽園は式を問わず見所が多い。

  


金沢の兼六園

金沢城の庭園である兼六園は岡山の後楽園、水戸の偕楽園とならぶ国の特別名勝に指定されている。
現在の姿に造園されたのは13代藩主斉泰の時代で「兼六園」の名称もその頃に定めらた。
兼六園の名は宋代の詩人・李格非が書いた「洛陽名園記」に由来し、
宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園として時の老中松平定信が命名したと伝えられる。
 兼六園は、小立野台地に続く金沢城の後背地にあたり、城の防御上の弱点ということから、
有事のさいには防衛ラインとなるように作られている。
霞ケ池は堀として、築山は物見台や狼煙台、砲台として使えるように造られた。
さらに兼六園と城との間には堀(蓮池堀、百間堀)が穿たれ、城側は堅固な高石垣が組まれている。
 兼六園は池泉回遊式(廻遊式)の庭園で、総面積は約11万平方mにも及ぶ。
池や橋、生け垣、茶室などが配された庭園を歩くと、加賀百万石の栄華を偲ぶことができる。

 冬の風物詩の雪吊りや梅林の紅梅白梅など四季折々の自然と、
代々の藩主たちによる絶え間ない築庭の妙が織り成す兼六園の景観等みどころは多い。

   


水戸の偕楽園

水戸の偕楽園は、天保13年(1842年)に水戸藩第九代藩主徳川斉昭によって造園された。
徳川斉昭は、千波湖に臨む七面山を切り開き領内の民と偕に楽しむ場にしたいと願い、「偕楽園」と命名した。
 梅の公園としても有名で、約13haの広い敷地に約3000本・ 100種類の梅があり、2月下旬〜3月下旬に花を咲かせる。
春から初夏にはツツジ、秋にハギの花が咲く。また、偕楽園の表門近くの杉林・竹林、好文亭など四季を問わず見所が多い。